紫陽花を一輪挿しに飾ってありました。それを見ながら少しエッセイ風に書いて見ます。
忙しさの中で、見えなくなるもの
「もうこんな時期か」と、紫陽花の花が色づきはじめる頃に思いました。
季節の移ろいに、毎年のように気づく自分がいる一方で、その変化をきちんと“受け取る”ことができていない気がしていました。
ふとした日常の中にも、同じような感覚があります。
たとえば、娘のヘアゴム。気づけば最近は、自分で選び、自分で結ぶようになっていました。
ピアノの練習も「自分でやるから」と、こちらが声をかける前に椅子に座ることが増えてきています。
その成長に「えらいね」と言葉を返しながらも、心のどこかでは“次にやること”を考えてしまっている。
ちゃんと見ているようで、見ていない——そんな自分に、ふと気がつく瞬間があります。
紫陽花の色が少しずつ変わっていくように、子どもの中でも、小さな変化は静かに進んでいます。
それをただ“眺める”こと。いまの私には、その時間こそがとても大切なように感じています。

「眺める」は、ただの受け身じゃない
ある朝、朝食を終えて、会社へ行く準備。着替えていた時のことです。
テーブルの上に飾られていた紫陽花の花。
一輪挿しに小さな花が沢山集まってとても大きく。しなやかに飾られていました。朝のあわただしい空間に、ほんの少しの時間、見ていただけなのに、心がすうっと緩んでいくのを感じました。
「眺める」というのは、何もしないことではないのかもしれません。
いま、ここにあるものと、ただ同じ速度で“いる”こと。
それが「眺める」ことの本当の意味なのだと、その瞬間に気づいたような気がしました。
家の中でも、娘のちょっとした仕草や言葉に、もっとゆっくり目を向けたいと思います。
ついアドバイスしたくなる場面でも、「どう思ったの?」と、返す言葉を変えるだけで、
きっとその先の会話は、もう少し広がっていくような気がしました。
忙しいときこそ「余白の窓」を
一日の中で、ほんの数分でもいい。
スマホも、やることリストも少し脇に置いて、何かを“眺める”時間を持つ。
それが紫陽花でも、空に流れる雲でも、子どもの寝顔でもいいのだと思います。
「見よう」と思って見ることは、小さな心の窓をひとつ開けることに似ています。
余白は、自然には生まれてこないものです。
でも、ほんの少しでも意識して“とる”ことで、心の柔らかさはちゃんと戻ってくる。
忙しい日々だからこそ、あえて立ち止まって、見る時間をもつ。
それが、自分自身を整えるための、静かな習慣になるのかもしれません。
紫陽花が教えてくれたこと
紫陽花は、雨の季節にひっそりと咲く花です。
春の花のように華やかに咲き誇るというよりも、静かに色を深めていくその姿には、どこか凛とした美しさがあります。
だからこそ、ふと足を止めたときにその存在に気づくと、
心がじんわりとあたたかくなります。
何かを生産するわけでもなく、何かを成し遂げるわけでもない。
ただ、そこに在る美しさに心が動く。
その感覚を取り戻すことが、今の私にとっては、小さな再生でした。
おわりに
紫陽花を眺めながら思ったのは、「日々をただ進める」ことと「日々の中にいる」ことは、まったく違うということでした。
梅雨から夏へ。
梅雨前線が消えて、少しずつ空が高くなっていくこの季節。
紫陽花の淡い青に、心をそっと満たされながら、今日という1日を過ごしていきたいと思います。
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